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おどりば

ロースペックうつ病患者のブログ。寛解をめざして!

思いやりってどんな意味?私の「思いやり論」。

コラムのようなもの

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こんにちわ、サユです。
つい先日、こんな記事を書きました。

www.sayulog.com

この記事を書いた後に、ブログの読者さんからメールを貰いました。
そこに書かれていた言葉です。

「サユさんは、どんな時に自分の思いやりを感じますか?」

私にとっての「思いやり」って何なのか。
改めて考えました。

今回は、私が捨てたらきっと幸せになれる、でも絶対に捨てられないであろう「思いやり」について、自分なりの考えをつづります。

 

 

 同情と共感の違い。

おもい‐やり〔おもひ‐〕【思い▽遣り】

1 他人の身の上や心情に心を配ること。また、その気持ち。同情。

2 想像。推察。

3 思慮。分別。

おもいやり【思い遣り】の意味 - goo国語辞書

同情は憐れみを伴うものである、とよく言われます。
相手を「不憫だ」「可哀想だ」と評価して、一見寄り添う顔をしながら実は見下しているものが「同情」である、と。

だとしたら、私の考えている「思いやり」は「同情」ではありません。

同情とよく似た言葉に「共感」があります。
同情と共感の違いは、相手に向かう感情が存在するかしないかだと私は考えています。

同情なら、相手を不憫で可哀想だと思います。もしかしたら、助けてやろうか、なんて手を差し出すこともあるかもしれない。
共感とは、相手を評価することなく、手を差し伸べるでもなく、見返りを求めるでもなく、ただ相手が感じていることを理解しようとすること。

私の言う「思いやり」は、「共感」に近いと思うのです。

誰かを不憫だなんて思いません、私本人が社会的にかなり残念な人間ですから。
助けてあげようなんて思いません。もちろん、手助けできることがあるなら手伝いたいけれど、私は身分もお金も特別な力も無い人間です。誰かを助けてあげたいと思ったって、そんな力を持ち合わせていないこと、自分が一番よく知っているつもりですから。

ただ、私の「思いやり」を「共感」という言葉で置き換えて終わらせてしまうと何かが足りないので、もう少しお付き合いください。

 

 

刃物が怖いんです。

結局のところ私は、細やかに心遣いができる人間を理想像としているのです。

自分の言動が誰かを傷付けないか、不快にさせないか、常に気を配っていたい。誰に対しても同情ではなく共感をもって向き合って、誠実でありたいのです。

私は言葉が他人に与える負荷を「刃物で切られる」感覚として想像します。

わかるでしょうか、あの嫌な感覚。
……いえ、わからなくていいです。とにかく、私はそれがすごく嫌いだということさえ踏まえていただければ。

誰かを傷付けた、と思ったら、私も痛いんです。
それが、私にとっては「普通」。

攻撃的な発言に反感を覚えた時、「どうして平気で刃物を振り回せるのか。あなたは他人が切られる痛みを想像しないのか」って、文句を言いたくなってしまうんです。

私は攻撃的な人を恐れます。その手にある見えない刃物を恐れます。
攻撃的な人が正しいとも、私が正しいとも言いません。
ただ、「そういう人もいるのだ」と割り切れない自分が未熟であることは確かです。

攻撃的な発言を好む人から見たら、私のようなタイプは「そんなに周囲に気を遣って、さぞや消耗していることでしょう」といったところでしょうか。同情されてしまうかもしれませんね。

周りに気を遣って言いたいことが言えないよりも、「自分の意見はどんどん主張しろ!」と強いられることの方が拷問のようだと感じる人間もこの世にはいるのだということを、ここに記しておきましょう。

 

 

全力のメールと、思いやり。

周りに気を遣うことによって自分の意見がまったく言えなくなるか、というと、そうでもありません。
言いたいことは言うんですよ。ただし、周到に気を遣った上で。

私はリアルタイムでの口頭による会話が得意ではありません。いえ、もちろん普段の適当な会話ならば普通にこなすことができますが、議論となるとどうにもダメです。

口頭で主張をぶつけられると、私はその場で反論することができないんです。

単に私の頭の回転がのろまな所為もあるとは思うのですが、相手の意見を受け取って、咀嚼して、飲み込んで、消化して相手の意図をしっかり汲み取るまでにとにかく時間がかかります。
さらに、脳のどこかで消化された相手の主張が私の思考回路に吸収されて、食中毒を引き起こしたならば、そこで初めて反論が発生するという仕組みになっている模様。

そしてその反論も、リリースする前に吟味する必要があります。この意見を伝えたら相手がどう思うか、相手に気付きを与えられるだろうか、って。

要は、意見を貰ったらツッコめるところ全てに自分が納得できるツッコミを入れて返事をしたいのです。

これが口頭のやりとりの中でできるものなんでしょうか?私にはできません。
ですから、いろいろなことをまとめて主張されると「3日後に返信しますから待って下さい!」と言いたくなります。
実際にはそんなことできないので、黙って受け止めるだけです。議論にならない上に、数日後になってもやもやが湧いてくるという喜ばしくない事態に陥ります。

メールは、私にとって最高のツールです。
相手の主張を時間経過で忘れてしまうことがない。何度だって繰り返し読んで吟味できる。もちろん、嫌なことを言われたら忘れられないという負の側面もあるけれど。
言いたいことが全てまとまったら、その時こそ全力で返信するんです。一回あたりの時間はかかるけれど、後悔無い意見のやり取りができるので、私はこの方式が気に入っています。

メールのおかげで、私はちょっとだけ議論に参加できるようになりました。
その延長が、このブログだったりもします。

まず、相手の感情を想像すること。
そして、ひとつずつの意見に向き合って、共感して、吸収した上で判断して、自分の真摯な意見を返すこと。

メールにおける私の態度こそが、私にとっての「思いやり」です。
冒頭の記事の、私が捨てるべきではないかと考えている「思いやり」の正体は、コイツです。

 

 

無い物ねだりの愚痴なんです。

だって、すっげー強そうな人がいるんだもん。
気兼ねなく刃物振り回して、刃が当たった人とはさようなら。
そんな横暴なルールを自分で設定して、それでも楽しく生きていける人が世の中には結構いるみたいなんです。
弱い私だって横暴に生きてみたかった。その方が絶対楽だもの。
強くなりたいよ。

でもやっぱり無理みたいです。
「自分の意見を言わなきゃ存在価値が無いし意見が言えないなんて苦しくて死にそう!」っていう人がいるのと同じように、「発言の際に全力の思いやりを尽くさないなんて全身刃物で切り裂かれて死にそう!」っていう私がいるんです。
そういうことなんですね。

平凡な言葉を紡ぎます。
キツイ言葉を使わなくても伝わるはずだと、言葉の力に縋って。

思いやりを尽くせば尽くすほどに、言葉はエッジを失って誰の心にも刺さらなくなるのかもしれません。
けれども、そもそも私は誰も刺したいなんて思ってないんです。
指の先でつつくくらいで十分。「ねぇねぇ、ちょっと気付いてくださいよ」って。

刺さなくたって、殴らなくたって、伝わることはあると信じたい。
……いや、それでも伝わるように言葉を尽くすべきなんですよね、私がブログで文章を織り続けたいと思うならば。

なんとかして誰かに刺さる文章を書こうとしていた過去の記事が少々目に痛いです。

 

キツイ言葉を使うのは、記事のタイトルだけにしよう。
ブログなんてたくさんあるからね、記事タイトルは派手にしないと読んでもらえないからね。そこだけ頑張ろう。

ブロガーのみなさま、どうぞ身の丈に合ったブログ運営を。