おどりば

ロースペックうつ病患者のブログ。寛解をめざして!

私の苦しみは、私だけのもの。あなたの苦しみは、あなただけもの。

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こんにちわ、サユです。
ぼんやり思っていたことをぼんやりと書いてみたらそれなりの長さになったので記事にしてみることにします。
文体がいつもと違うのは、なんとなくそんな気分だったからです。
深い意味はありません(笑)

 

苦しみと縁の無いまま生きている人間なんていない。
例え、人が心に思い浮かべることができる限りの全てに恵まれた人間がいたとしても、その人には恐らくその人なりの苦労があるだろう。

人生とは「苦」に満ちているものだ、と私は思っている。
生きるとは苦しみを搔き分けながら進むことである。
そしてその苦しみは、苦しんでいる本人だけが知ることのできるものである。

他人にできるのは思いやることだけ、想像することだけ。
自分以外の苦しみに、実際に触れてその形を知ることは叶わない。

私は、苦しみを訴える人に対して「その程度で?」という反感を抱かないように心がけている。
私にとっての「その程度」が、相手にとっても「その程度」であると考えるのは、全くもって傲慢な態度であるからだ。

うつ病になって、私は「人並みのこと」ができなくなった。
全ての人間に等しく「今日を生きるエネルギー」が与えられているのだとしたら、私はそのうちの7割か8割をうつ病との闘いに費やしていて、残りの3割か2割で何かを為さなければならない。
エネルギーの全てを目的の為に注げる「健康な人」と比べたら、当然効率は落ちるし、発揮できる能力も落ちる。できることには限りがある。

だが、「健康な人」の感覚で私を評価すれば、「エネルギーの3割か2割しか使っていない怠け者、あるいは無能」となるだろう。

例えば。
100mを、いとも簡単に(と言ってしまうと語弊があるとは思うが)10秒台で走る能力を持っているアスリート達がいる。
彼らには、「どんなに努力して頑張っても100mを走る為に20秒かかってしまう人の感覚」は、恐らくどうやっても理解できないだろう。

彼らが大いに手を抜いて走ったとしても100mに20秒はかからないであろうから、「全力でやってこれしかスピードが出ないってどういうこと?本当に真剣に走ってる?」という考えが自然に浮かんだとしても責めることはできない。

そして、仮にそこで「本当に真剣に走ってる?」と口に出したら、頑張っても20秒かかってしまうランナーをひどく傷付けることになるだろう。

「健康な人」が「病人」を理解できない時、あるいは傷付ける時、これと同じようなことが起こっている、と私は考える。
うつ病患者の「どうやっても不可能」が、健康な人にとっての「簡単に可能」であることは珍しくない。

「自分が普通にできることは相手も同じようにできるはずだ」と、考える人は多いだろう。
だが、うつ病患者の「不可能」は「凡人が100mを10秒台で走る」といった類のものなのだ。病に蝕まれているがゆえの能力的な不可能なのだ。
怠けでも、甘えでもない。

うつ病患者の中には、自分が怠けているのではないか、甘えているのではないか、という不安を抱き続けている人が少なくない。
かつては普通にできたことが急にできなくなったら、「どうして?」と思うのは当然のことだ。まず第一の原因として自分の怠慢を疑うのも当然のことだ。
諸悪の根源はうつ病であり、本人に責は無いのだということを、真面目な性質の人ほど受け入れることが難しい。つくづく厄介な病である。

「可能」な人にとって「不可能」であることを想像することは難しい。
何らかの方法で身をもって体験しない限り理解することはできないだろう。

だから「その程度でツライの?」「そんなこともできないの?」と思ってしまう。
時にはポロッと口に出してしまう。或いは文字という形にして発信してしまう。

その疑問は全く自然に生まれるものであるから、ある程度は仕方のないことだ。
「その程度で?」と思われるのはツライことだが、理解できないがゆえに生じる疑問を責めることはできない。理解が不可能であることと無理解であることは違う。
「疑問を持つな」というのは「呼吸をするな」と言うのと同じくらい身勝手な願いだろう。

ただ、「その程度で?」「そんなことも?」と思った後に、「この人だって苦しんでいるんだよな、わざわざ責めるのはやめておこう」と付け加えてくれる人が少しでも増えて欲しいとは思う。

そう願っている私自身、「その程度で?」という思いを抱くことが全く無いワケではないが、思った時にはすぐに否定することにしている。

「私の苦しみは、私だけのもの。あなたの苦しみは、あなただけもの」

どんなに恵まれていても、この世の幸せと呼べる要素を全て持ち合わせていたとしても、その目に映る世界が地獄なら、その人は間違いなく地獄にいるのだ。
他人が誰一人としてそれを認めてくれなくとも、その人は間違いなく地獄にいるのだ。

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私は「苦」を比較することが嫌いだ。
私の「苦」と他人の「苦」は別物で、「どちらが苦しい思いをしているか?」と考えるのは「1kgと1mではどちらが大きいか?」といった類の、解の無い問いだと思うからだ。

「紛争地帯の貧しい子供に比べたら、うつ病患者の苦しみなんて遥かに軽い」という言葉を貰ったことがある。

私は紛争地帯の貧しい子供ではないし、紛争地帯の貧しい子供は日本のうつ病患者ではない。
紛争地帯の貧しい子供は確かに「地獄」を生きているだろう。
だが、私はその子供が見ている「地獄」を知り得ない。もちろん、なんとなく想像することならばできるが、所詮は想像だ。この程度のぼんやりしたものを根拠に、他人の苦しみが解るとは語れない。

私は私で、ただでさえ無能なのにうつ病にエネルギーの大半を奪われて普通の暮らしもままならない、私の「地獄」を生きている。
他人からどんなに「お前の地獄は地獄と呼べるものではない」と手厳しく詰られたところで、私に見えているのは間違いなく地獄なのだ。

うつ病患者の苦しみなんて」という言葉を貰った時、私は「あなたに私の苦しみが解るハズが無いのだから勝手に評価するな」と吠えてしまった。
言葉選びが雑だったと反省しているが、決して「こんなに可哀想な私」をアピールしたかったワケではないし、まして「我々うつ病患者は被害者だ!加害者最低!」などと言いたかったわけでもない。

伝えたかったのは「他人の苦しみの大小を比較評価する権利があるほど偉い人なんていない」ということ。

「苦しい」と言う人はみんな苦しいのだ。
「この世は地獄だ」と思う人にとっては、この世は地獄なのだ。
「この程度のことで」「こんなに恵まれているのに」という第三者視点は、本人が感じている苦しみには何ら影響を与えないのだ。

 

都会に生まれたことを嘆く人がいる。田舎に生まれたことを嘆く人がいる。
金持ちに生まれたことを嘆く人がいる。貧乏に生まれたことを嘆く人がいる。
男に生まれたことを嘆く人がいる。女に生まれたことを嘆く人がいる。

文章力さえあれば、誰だって悲劇の主人公になれる時代だ。
苦しみだけをつまみ上げ、劇的な言葉を並べて語れば、誰にだって悲劇は描ける。何故なら、生きることとは苦しみの中を搔き分けて進むことであるから。

間抜けな言葉に聞こえるかもしれないが、「みんな苦しいんだよ」。

時には環境を恨むことも、誰かを羨むこともあるけれど、苦しみを苦しみとして尊重する心は持ち続けたい。
たとえ私の苦しみを誰も尊重してくれなかったとしても、私は私の良心に従って、他人の苦しみを苦しみとして、理解できなくても尊重しようと思うのだ。

 

「私の苦しみは、私だけのもの。あなたの苦しみは、あなただけもの。ただ一つ共有できるのは、苦しみを訴えている人が苦しみを感じているという事実」

そんな風に、考えている。